第十五作目『悲夢』においては、もはや夢見ることは「救い」にならない。夢によって現実が浸食されていくからだ。主人公の男は夢を見ないために死を選ぶことになる。漢江は登場しても橋脚の鳥居は正面からは捉えられない。異界への入り口は曖昧で、雪に覆われた川底には逃げ込めないのだ。男は橋の上から身を投げ、凍った漢江の上でこの世とあの世の境界を彷徨うしかない。『鰐』ではふたりの死に場所がユートピアとされた。しかし『悲夢』では夢見ることは禁じられ、ユートピアを妄想することもできずに死んでしまうのだ。
先にも触れたが『悲夢』は
「胡蝶の夢」がモチーフであり、荘子の「万物斉同」にも似た
「黒白同色」というキーワードが登場する。これは「万物斉同」のギドクなりの表現と思われる(黒から灰色となり白へと到るグラデーションも、大局から見れば同じ色だという意味か)。黒と白が同じ色であるように、虚構(夢)も現実も差はなくなる。主人公の男と女はひとつであることが示唆されており、男の見る夢が女の現実となる。男が夢のなかで欲望を満たすことが、女には現実の耐え難さとして生じる。だから男は夢見ることを禁じられる。男と女がひとつの存在とはどういうことか。それは人間の意識と無意識の象徴かもしれないし、善の部分と悪の部分かもしれないし、アニマとアニムスなのかもしれない。
ラストでは、縊死して蝶となった女と、漢江に横たわる男がひとつとなる。死してふたりはひとつになったから、「救い」となるだろうか。また「万物斉同」の思想においては、生も死も
斉しい価値を持ち、死を嘆くべきものと捉えるのは間違っているだろうか。荘子は生も死も斉しいとは説いても、死の世界を素晴らしいとして生を貶めはしなかった。死が素晴らしいなら、生も同様に素晴らしいはずであり、そこからは自殺の考えは生じない。
これまでギドクの主人公たちは自殺を試みても、必ず失敗してきた。唯一の例外が『受取人不明』で、これは自伝的であるゆえに「救い」がないとすでに記した。たとえ自死しても見えない存在として(『弓』)、あるいは蛇に変身して(『春夏秋冬そして春』)映画のなかに生きれば「救い」はある。しかし『悲夢』では、ふたりの自死は成功し映画は幕を閉じる。ここに「救い」はなく、『絶対の愛』で述べた否定的な意味でも、それを見出すことは困難だ。
もちろん映画が必ず「救い」を提示する必要はない。ギドクに「救い」を求めるのは、単に私の願いなのだから。だから「救い」のない終わり方だと言って非難するのはお門違いだろう。レイプや暴力を描いているからと、ギドク映画をその倫理性から非難するフェミニストのごとく愚かなことだ。
ただ次のようには言えるかもしれない。『鰐』では主人公は水中に沈んだまま息絶えた。物語のなかで主人公は救われていないが、画面上には「龍宮」というユートピアが出現して観客は救われる。『魚と寝る女』でも同様の構図だ。『うつせみ』や『悪い男』では夢や幻想がスクリーンに描かれて、行き場のない主人公たちの「救い」となった。しかし『悲夢』においては、凍った漢江の上でふたりが寄り添うだけだ。そこに何らかのユートピアを見ることも、逃げ込むべき夢や幻想も存在しない。『ブレス』も『悲夢』もそんな「救い」となるイメージを「絵画的な」映像として提示できなかったところが、ギドク作品としては食い足りないところではないだろうか。
ギドクは「映画をつくることは人生を理解するための試みだ」と語る。だとすれば、ギドクの理解によれば「救い」を見出すことの困難な状況があるということかもしれない。
改めて考えてみればすでにその兆候はあった。『春夏秋冬そして春』では転換期を迎え、それまで現実逃避的であった作品に変化が生まれつつあった。その後の『うつせみ』で、そうした夢・幻想が「救い」となる映画はひとつの完成を見せた。『弓』では老人の夢をあの奇想天外なひとり破瓜シーンで叶えたものの、もう一方の主人公である少女は囚われの船から逃れて社会へ帰っていくことになるのだ。また『絶対の愛』では女の抱く幻想は甘美なものではなく、狂気として描かれる。そして一時は愛し合ったふたりは永遠に会うこともできずに彷徨う。これは絶望的な話なのだ(私は新境地として評価するが)。
「救い」は消えたのだ。しかしそれは夢や幻想に逃避せずに
現実と向き合うことでもある。これをギドクの新しい展開だと考えよう。今後のギドクが「救い」のない人生をどのように乗り越えていくのかは新作を待ちたい。そこで新たな「驚き」が届けられることを祈ってひとつの区切りとしたい。
『鰐』における異界への入り口
『悪い男』における異界への入り口
『うつせみ』における異界への入り口
律儀に真正面から捉えられ向こう側が見える
『悲夢』 向こう側が曖昧になっている