『絶対の愛』撮影後、ギドクは韓国で引退騒動を起こした。テレビ討論会での『グエムル―漢江の怪物―』に対してのギドクの発言が、視聴者からの多くの否定的な意見を招いたのだ。詳細は不明だが、ギドクは「今後は韓国で映画を公開しないと決心した」と宣言したものらしい。漢江はギドクにとって処女作『鰐』以来の特別な場所だから感情的になった部分もあるのかもしれないが、日本で伝えられる限りでははっきりしない。自らが創ってきた映画に対する矜持と欧州で与えられた評価に比べ、韓国での誤解が反発となって生じた騒動だったのかもしれない。「自分こそ韓国社会で奇形的に生まれ劣等感を糧に育ってきた怪物のようなもの」という自虐的な発言は、韓国で「非制度圏」の人間として孤独に戦うことの困難さを示しているだろう。騒動からは戻ってきたギドクだが、その後の作品には迷いや絶望が感じられる。
 第十四作目『ブレス』では、四季表現ばかりに目を奪われがちだが、夏の場面で語られることが重要だ。「死んでいたときのことを思い出す。急に風船みたいに体が大きくなる。私がいない。私は鳥になった。風になった。周りがよく見える。私がいなくなった。向こうで私が私を見ている。私が何千人もいる」。この支離滅裂な表現は、トランス状態の女から発せられる。私の存在が大きくなり、拡散し、ほかの誰かになり、みんなになり、宇宙になる。これは「梵我一如」の女なりの表現だ。語られたことの定義はこの際どうでもいいが、それは何らかの悟りの境地みたいなものと考えればいいだろう。女はその境地を「悪い感じはしない」「快感」と表現している。そして不幸せな結婚生活がその境地を求めさせたことも重要だ。ここでも生きがたい現実がそれ以外のもの(ここでは悟りの境地)呼び寄せているのだ。女はかつて「五分だけ死んだ」際、その状態に陥ったのだ。近い将来の確実な死が約束された死刑囚に触発されて、女はその境地を自分でも求め、男にも分け与えようとする。死刑囚への差し入れは四季ではなく、その境地へ誘うことなのだ。
 ギドクは監督・脚本としては、作品『ブレス』における“神”の存在に位置しているが、同時に保安課長役として登場し物語にも内在する。保安課長は監視カメラで刑務所内のすべてを把握し、死刑囚と女の面会を見守りつつコントロールしていく。つまり物語内における“神”のような存在だ。冬の場面では、死刑囚の息を吸い尽くそうとする女の行動を見て、保安課長はただちに監視カメラの映像を切ってしまう。見て見ぬフリを決め込むのだ。女の意図は死刑囚殺害ではない。かつて体験した境地へふたりで到達しようとするのだ。保安課長の態度は、その境地に向かわせようとする意志の表れだ。しかし保安課長は全能ではないため、名もない刑務官によって邪魔されることになる。死刑囚も女が到達した境地には達せず困惑するばかりだ。ラスト、夫と子どもの待つ家庭へと女が戻っていく。これはどっちつかずな印象を免れない。私はギドクの迷いを感じてしまう。これまでならば現実と並び立つ虚構が画面を支配していき、それが「救い」と感じられたが、『ブレス』にはそれがない。女が感じた境地は言葉では語られても、結局はそこに行き着くことを断念してしまうのだ。
 引退騒動の際、韓国の観客に対して自己批判してみせたように、常識的な考えから遠く離れてしまう自らの想像力に戒めを課しているかのようだ。『うつせみ』が幻想へ没入したごとく、ギドクの本来の意図は「梵我一如」の境地へとふたりを導くことだった。しかし観客(常識)には受け入れられない。そんな葛藤があるのではないか。現実のギドクが貫きたい意志が、社会の常識で捻じ曲げられたように見える。映画内存在たる保安課長にはその意志だけは遂げさせた。しかし現実のギドクはそれができなかった。元の鞘に納まったはず夫婦の歌は、悲哀の色が濃い。ここには「現実の存在である監督ギドクが断念したことを、映画内存在たる保安課長によって達成した」というアイロニーはないはずだ。

『ブレス』 刑務所内の“神”たる保安課長
監視モニターに映り込む保安課長役の監督ギドク

 第十五作目『悲夢』においては、もはや夢見ることは「救い」にならない。夢によって現実が浸食されていくからだ。主人公の男は夢を見ないために死を選ぶことになる。漢江は登場しても橋脚の鳥居は正面からは捉えられない。異界への入り口は曖昧で、雪に覆われた川底には逃げ込めないのだ。男は橋の上から身を投げ、凍った漢江の上でこの世とあの世の境界を彷徨うしかない。『鰐』ではふたりの死に場所がユートピアとされた。しかし『悲夢』では夢見ることは禁じられ、ユートピアを妄想することもできずに死んでしまうのだ。
 先にも触れたが『悲夢』は「胡蝶の夢」がモチーフであり、荘子の「万物斉同」にも似た「黒白同色」というキーワードが登場する。これは「万物斉同」のギドクなりの表現と思われる(黒から灰色となり白へと到るグラデーションも、大局から見れば同じ色だという意味か)。黒と白が同じ色であるように、虚構(夢)も現実も差はなくなる。主人公の男と女はひとつであることが示唆されており、男の見る夢が女の現実となる。男が夢のなかで欲望を満たすことが、女には現実の耐え難さとして生じる。だから男は夢見ることを禁じられる。男と女がひとつの存在とはどういうことか。それは人間の意識と無意識の象徴かもしれないし、善の部分と悪の部分かもしれないし、アニマとアニムスなのかもしれない。
 ラストでは、縊死して蝶となった女と、漢江に横たわる男がひとつとなる。死してふたりはひとつになったから、「救い」となるだろうか。また「万物斉同」の思想においては、生も死もひとしい価値を持ち、死を嘆くべきものと捉えるのは間違っているだろうか。荘子は生も死も斉しいとは説いても、死の世界を素晴らしいとして生を貶めはしなかった。死が素晴らしいなら、生も同様に素晴らしいはずであり、そこからは自殺の考えは生じない。
 これまでギドクの主人公たちは自殺を試みても、必ず失敗してきた。唯一の例外が『受取人不明』で、これは自伝的であるゆえに「救い」がないとすでに記した。たとえ自死しても見えない存在として(『弓』)、あるいは蛇に変身して(『春夏秋冬そして春』)映画のなかに生きれば「救い」はある。しかし『悲夢』では、ふたりの自死は成功し映画は幕を閉じる。ここに「救い」はなく、『絶対の愛』で述べた否定的な意味でも、それを見出すことは困難だ。
 もちろん映画が必ず「救い」を提示する必要はない。ギドクに「救い」を求めるのは、単に私の願いなのだから。だから「救い」のない終わり方だと言って非難するのはお門違いだろう。レイプや暴力を描いているからと、ギドク映画をその倫理性から非難するフェミニストのごとく愚かなことだ。
 ただ次のようには言えるかもしれない。『鰐』では主人公は水中に沈んだまま息絶えた。物語のなかで主人公は救われていないが、画面上には「龍宮」というユートピアが出現して観客は救われる。『魚と寝る女』でも同様の構図だ。『うつせみ』や『悪い男』では夢や幻想がスクリーンに描かれて、行き場のない主人公たちの「救い」となった。しかし『悲夢』においては、凍った漢江の上でふたりが寄り添うだけだ。そこに何らかのユートピアを見ることも、逃げ込むべき夢や幻想も存在しない。『ブレス』も『悲夢』もそんな「救い」となるイメージを「絵画的な」映像として提示できなかったところが、ギドク作品としては食い足りないところではないだろうか。
 ギドクは「映画をつくることは人生を理解するための試みだ」と語る。だとすれば、ギドクの理解によれば「救い」を見出すことの困難な状況があるということかもしれない。
 改めて考えてみればすでにその兆候はあった。『春夏秋冬そして春』では転換期を迎え、それまで現実逃避的であった作品に変化が生まれつつあった。その後の『うつせみ』で、そうした夢・幻想が「救い」となる映画はひとつの完成を見せた。『弓』では老人の夢をあの奇想天外なひとり破瓜シーンで叶えたものの、もう一方の主人公である少女は囚われの船から逃れて社会へ帰っていくことになるのだ。また『絶対の愛』では女の抱く幻想は甘美なものではなく、狂気として描かれる。そして一時は愛し合ったふたりは永遠に会うこともできずに彷徨う。これは絶望的な話なのだ(私は新境地として評価するが)。
 「救い」は消えたのだ。しかしそれは夢や幻想に逃避せずに現実と向き合うことでもある。これをギドクの新しい展開だと考えよう。今後のギドクが「救い」のない人生をどのように乗り越えていくのかは新作を待ちたい。そこで新たな「驚き」が届けられることを祈ってひとつの区切りとしたい。
 
『鰐』 この画像では見えにくいが映画では向こう側が見える
『鰐』における異界への入り口

『悪い男』 突如挿入される異界の入り口
『悪い男』における異界への入り口

『うつせみ』 鳥居のような橋脚
『うつせみ』における異界への入り口
律儀に真正面から捉えられ向こう側が見える

『悲夢』 鳥居は斜めから映される
『悲夢』 向こう側が曖昧になっている
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