ギドク映画のなかで唯一「救い」がないのが『受取人不明』だ。これはギドク第六作目の自伝的要素が強い作品だ。七割が事実で三割が脚色だという。割合はともかくも、ギドクが三人の主人公たちに実在の人物をモデルとして見ていることは確かだ。また彼の映画のなかで最も現実に即していて、そこには夢や幻想といった虚構が入り込んでこない。ギドクは「事実を感じられる映画」「写実的な映画」だとしている。残酷な描写が続き悲惨なエピソードが満載だが、それは現実の反映だ。その意味では想像力の飛翔は少ない。実在の人物たちが現実に救われなかったのと同様に、この映画では「救い」が訪れることがないのだ。
 舞台は米軍基地のある町だ。最初の主人公は絵描きで、チンピラにカツアゲされる弱虫だ(ギドクがモデルだろう)。二人目は黒人とのハーフで、母親と米軍払い下げの赤いバスに住んでいる。父親は米国に帰り、出す手紙はすべて「受取人不明」の判が押されて戻ってくる。三人目は片目に傷を負った少女だ。
 ギドクは米軍に対し善悪の判断を下してはいない。ひとりの兵士が少女に接近するが、それは米軍の横暴さではなく、母国を離れた異邦人たる寂しさのゆえにだ。いじめ・差別・レイプ・堕胎・殺人・復讐、それらを貫く「怒り」が矢継ぎ早に示される。ハーフの青年は殺人を犯し、泥のような大地に頭から突っ込んで自殺する(『八つ墓村』を想起させるが、ギドクによれば祖国の大地に半分しか還れないハーフの姿を示している)。絵描きはチンピラに復讐して刑務所送りになる。少女は米軍に身を任せることで片目を取り戻すが、結局は自らその目にナイフを刺して光を失うことを選ぶ。常に「受取人不明」の判で戻されていた手紙に初めて返信があったときには、すでに受け取るべきハーフの青年もその母親も亡くなっている。掛け値なしに素晴らしい朝靄のなかのラストシーンだが、そこには「救い」というものがまったくないのだ。
 ここにはギドクの現実の生があるのだろう。自伝的な作品という桎梏は、ギドクが味わってきた現実を安易に変えさせはしなかった。しかし初期作品に満ちる「怒り」を、自身のなかで再確認する作業としてもこの作品を創る必要性があった。確認された「怒り」は、映画を創造するなかで自由に展開し、さまざまに虐げられた底辺の人間たちに「救い」を与えることで解消されてきたのかもしれない。
 
『受取人不明』 戻ってきた手紙には何が?
美しい朝靄のなかのラストシーン


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