『絶対の愛』(第十三作)において、テーマとなるのは「永遠の時」だ。ヒロインたるセヒは、恋人ジウに「絶対(=永遠)」の愛を求める。浮気性のジウの気持ちをつなぎ止めるためにセヒが採った行動は、整形をして新しい顔に生まれ変わることだった。このいささか突飛な結論はジウの狂気を示すとともに、この作品がひとつのファンタジーとして、あるいはひとつの思考実験としてあることをも示している。物語は観客を置き去りにしかねない展開を見せ、セヒの整形に対してジウも整形を施して応じるのだ。ギドクの主人公たちの多くは、『魚と寝る女』『悪い男』『うつせみ』などに顕著なように、禁欲的なまでに言葉を発しなかった。主人公たちの置かれた風景や、身体的な痛みや、的確な画面構成で彼らの心情を観客に伝えてきたのだ。『絶対の愛』ではスタイルを変えて新たな境地に挑もうとしている。
 ふたりの主人公は喫茶店やベッドの上でさまざまな会話を交わす。その台詞は機微に飛んだものではなく、観念的でおよそリアリティに欠ける。セヒは「毎日同じ顔(姿)でごめんなさい」(@)と泣いて、整形に走る。飽きられる自分に対する抵抗としては明らかに間違った行為だ。セヒは傷が癒えるまで姿をくらます。ジウは消えたセヒを想いつつも、寂しさからか他の女に手を出して「人間なんて皆同じだろ」(A)とつぶやくように言い訳する。整形後のセヒは、「スェヒ」と名乗りジウに近づくと、たちまち新たな関係を築く。ジウはスェヒ(=セヒ)に「新鮮でした」などとのたまう。顔以外は変わっていないはずなのにである。ここでギドクはスェヒ(=セヒ)にカメラを凝視させ、「思いどおりになった。でもなぜか悲しい」などと語らせてしまう。セヒの悲しさは当然で、ジウが見ているのはスェヒの姿であり本来のセヒではないからだ。セヒは仮面としてのスェヒに嫉妬し、スェヒにはジウの心に潜む想い出の自分(セヒ)が邪魔者となる。かつての自分(セヒ)と今の自分(スェヒ)とで、愛を奪い合うのだ。耐えられなくなったスェヒ=セヒは、「時が怖かった」(B)と語り、かつての顔を捨て去ったことを告白する。
 Bの台詞は神仙思想で見たような衰えゆく肉体に対する恐怖ともとれるが、それが@となると自分が自分である固有性を否定してしまっている。恋愛は自分にとって相手が固有のものであることが不可欠なはずだが、Aはそんな固有性を否定せざるを得ないあきらめから吐露される。本当は行方をくらましたセヒが恋しいが、それは今となっては仕方ないというわけだ。男の浮気性も褒められたものではないが、それに対抗する女の手段はまさしく狂気だ。しかしギドクが提起するのは狂気ではなく、アイデンティティの問題なのだ。

 『絶対の愛』では「反復」の主題が登場する。喫茶店や彫刻公園での語らい、ふたりに怒りをぶつけられる街路樹、ふたりが結ばれ、そして永遠に別れることになる追いかけっこ。これらは繰り返される。台詞も「反復」され、前述した@Aはともに二度口にされる。また散りばめられる過去作品の引用も「反復」と言えるだろう。
 「反復」の主題はアニメ等では頻繁に現れる。最も有名なのは、押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だろう。登場人物たちは時間の環のなかに閉じ込められ、その円環から抜け出すことが目的となる。東浩紀はそうした主題をゲームとの関係で論じた。大澤真幸はそこに「終わりたくても終わることができない」現代社会の困難を読み込み、第三者の審級の摩滅に結びつけた。どちらも「反復」は恐怖され、それは克服すべきものとして論じられている。改めて考えると、なぜ「反復」は恐れを抱かせるのか。
 『絶対の愛』においては、「反復」は「時」の表現だ。「時」は時計を示して表現できるものではない。永遠に春が続いたとしたら、われわれは時の流れを感じられない。次の春がやって来てこそ「時」が存在する。セヒとジウは喫茶店で待ち合わせをするが、この幾分かオシャレな喫茶店は、その度に舞台として登場する。ここでは店長らしき女性は常に一緒だが、店員は毎回のように入れ替わる。入れ替わらない場合には、態度に変化が生じる(前回は愛想がよかったのに、次にはぶしつけになる)。喫茶店が存在する街角は当然同じだが、ふたりが座る席は異なりもする。変わらないことと同時に変わったことがあるからこそ、「時」の存在が感じられるのだ。
 だから「反復」が恐怖されるとすれば、それは退屈な日々の繰り返しへの恐怖としてなのだ。セヒとジウは日々違う服を身にまとって画面に登場する。また帽子・眼鏡・マスク・サングラスや、さらには仮面(驚愕の!)によって自らを演出する。これはギドクが突然ファッションに目覚めたわけではく、同じように繰り返される日々のなかで自らの同一性に抗うためだ。日々は淡々と「反復」するが、そのなかで自分だけは「反復」されないという意志なのだ。
 ジウはセヒの整形にショックを受けて、対抗手段のための「整形返し」という暴挙に及ぶ。セヒは別人の相貌を手に入れたはずのジウを捜し求める。しかし手掛かりはない。手のぬくもりや感触も、交し合った愛の言葉も、その愛の対象を確かめさせはしない。極度の混乱の末にセヒは再度の整形に至り、ふたりは永遠に相手を見失う。そして突如映画は冒頭のシーンへと戻り、円環を閉じる。再度の整形を施したセヒと、素顔のセヒがぶつかり合うのだ。冒頭に描かれたシーンが寸分違わず繰り返される。つまり映画自体が「反復」されることになるのだ。ここに至って、観客は「時」の観念を思い浮かべるだろう。原題は『Time』なのだ。

 それではセヒが求めた「絶対(永遠)」の愛はどうなったのか。「反復」されるシーンにもう一度注目しよう。ギドクを「空間についての映画」と捉える指摘については前述した。ここで登場するのは普通の喫茶店であり、ベッドの上であり、空間に対するこだわりは薄れている。しかし彫刻公園はセヒとジウの想い出の場所として設定されて、干潟に開かれた水のある風景でもある。なかでも特権的な位置を占めるのが、掌のオブジェ(両掌を広げた先に天に昇るように階段が続く)でのシーンだ。物語の円環からはじき出されたラストカットで、波間に浮かぶのもこのオブジェだ。セヒは掌のオブジェでかつて撮った写真を、整形後にも同じ構図で撮ろうとする。想い出の瞬間を上書きしようとするのだ。その後のキスシーンでは、ゴダール『気狂いピエロ』のラストのようにカメラが空へと移動していく。ゴダールの優雅さはなく、ギドクはあくまで性急に天へ続く階段を駆け上り空を見せる。ゴダールはそこでランボーの詩を被せた(「また見つかった、――何が、――永遠が、海と溶け合う太陽が」)。セヒはその場所での想い出に「永遠」を見つけようとしているのだ。
 「永遠」とは何だろうか。ボルヘスは『永遠の歴史』のなかで二種類の「永遠」について整理し、それをどちらも退けている。それでも「永遠」が考えられてきたことについてボルヘスは続けて記す。「永遠なくしては、魂たちの間で起こったことを写し出す霊妙で密やかな鏡なくしては、宇宙の歴史は失われた時間でしかなくなる」と。同じことをドストエフスキーは「不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべてが許される」(『カラマーゾフの兄弟』)と反語的に言い、「不死(永遠)」を希求している。われわれは「永遠」を想定しなければ生きていけない存在なのだ。最後にボルヘスは「一瞬のうちに全である」ことを永遠の典型として、自らの考えを披瀝している。    
そのような典型はノスタルジアが生みだしたものだと私は思う。幸福の可能性を思い出す追放された涙ぐましい人間は、それらの可能性の一つを成就したことが他の可能性を排除もしくは後まわしにしたことを完全に忘れて、それらの可能性を永遠の相の下に見る。強い感情に襲われて、思い出は無時間的な方向へと傾斜する。われわれは過去の多くの幸福をただ一つのイメージに集約する。毎夕私が見るさまざまな赤みを帯びた日没は、思い出の中ではただ一つの日没であるだろう。同じことは予見についても言える。どれほど互いに相容れない期待でも、邪魔ものなしに共存できる。換言すれば、永遠とは願望の様式なのだ。
 映画にはそうした「永遠」が度々描かれてきた。『永遠と一日』の詩人が最後の日に思い浮かべる輝かしいあの一日、『叫びとささやき』の日記に残されていた姉妹での散歩のシーン。それぞれの人物にとっての集約された「ただ一つのイメージ」だ。『絶対の愛』におけるそれは、掌のオブジェに結晶している。しかしそれは写真において示されるだけだ。すでに失われたものとしてしか「永遠」は存在し得ない(それは願望が呼び寄せるものだから)。整形後のそれはパロディでしかなく、虚しい営みとして繰り返される代替物に過ぎない。だからそこに『うつせみ』にあった恍惚感はない。『うつせみ』ではその瞬間で映画は終わる。それ以上描きようがないからだ。ボルヘスの語るように、「永遠」は事後的にノスタルジックに見出される。『永遠と一日』では、詩人は回想のなかで、妻に「私には飛び去らないようにピンで刺し留めたいほど大事なときだった」と語らせている。それでも時は飛び去り、詩人は妻とその想い出を「永遠」のものとして夢想するしかない。『絶対の愛』では、ギドクはそうした甘美さを捨てて、「時」の観念を描こうとしているのだ。また「永遠」が「願望の様式」だとすれば、それは個々人の願望が様々なように「永遠」も様々な形を持つということだ。その意味ではアイデンティティーの問題とも結び付くと言えるだろう。
 ここで「永遠」という名前で呼ばれているのは、ここまで「救い」というキーワードで見てきたものだ。前述したドストエフスキーの言葉は、「永遠」があるからこそ、「永遠」を想定できるからこそ、生きていけるということだ。「永遠」は「救い」そのものだ。しかし夢や幻想は映像にできても、「永遠」は画面に映らない。それはすでに失われたものであり、あるいははるかな未来にしか想定できないものであり、否定的な形でしか捉えられないものだからだ。
 例えば『ワイルド・アニマル』においては、同じ民族が殺し合ってしまう展開に逆説的に見果てぬ夢を感じさせる。『コースト・ガード』では、主人公たちが狂気に逃げ込むなか、兵士たちが興じるバレーボールのような球技のなかに民族統一の夢を託している。敵と味方を区別していたはずの境界線(三十八度線)はいつの間にかに消失してしまう。ラストに歌われるのはこんな歌だ。  
楽しかったあの頃に時計の針が戻せたら、薄れゆく記憶の中のあの昔に帰れたら、尽きせぬこの思いをあなたに伝えたい。いくら悔やんでみても、帰らざるわれらが日々
 
『絶対の愛』 掌のオブジェでのふたり
恋人たちの永遠の時は写真のなかだけに


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