ギドクは自らの映画を三種類に分けている。クローズアップ、フルショット、ロングショットという分類だ。クローズアップの映画は人間の強い怒りを表現している(『鰐』『魚と寝る女』『悪い男』)。フルショットの映画は社会における人間の存在を描く(『ワイルド・アニマル』『受取人不明』『コースト・ガード』『サマリア』)。ロングショットの映画では人間は自然の中の風景の一部であることを描いている。『春夏秋冬そして春』がロングショットの映画に該当するとギドクは説明する。
 監督第九作目にして、ギドクは転換期を迎えたとされている。注目しておきたいのは社会との関係だ。主人公が暮らす寺のなかに、壁もないのにそそり立つ扉が登場する。ドラえもんの「どこでもドア」を思い出せばいい。この装置は社会常識のメタファーだ。春の場面、老師も少年も見えない壁を存在するものとして、わざわざ扉を開けて出入りする。定められた社会ルールのなかで生きているのだ。しかし夏の場面になると、成長した少年は性欲に駆られて見えない壁を踏み越えていく。思えばギドクの動物的な主人公たちは、社会常識のなかでは生きられない人間ばかりだった。社会に背を向ける人間は、必ず社会からしっぺ返しをされる。人間は社会のなかでしか生きられないからこそ、適応できない人間は夢や幻想へと逃避するほかないのだった。しかし『春夏秋冬そして春』では一度は社会常識を踏みにじるが、冬の場面(中年期)に至り、再びその枠内で生きることを選ぶのだ。ギドクの心境の変化が見られるだろう。
 第十作目『サマリア』にも、その傾向は認められる。ここではギドク作品では珍しい親子の関係が描かれる。娘の売春に戸惑う父親は、その客には怒りをぶつけるが、娘に対しては何も言うことができず哀しみを抱くばかりだ。「つらいことがあったら忘れなさい」という父親の台詞は、説教としての機能をほとんど放棄している。そして父親は自暴自棄的に娘を買おうとする客を殴り殺し、娘をもその手にかけようと妄想を抱く。しかしそれはあくまでも妄想として処理されて、現実に回帰するのだ(死体に音楽を聴かせて目を覚まさせるという夢、これは感動のラストが一度死んで甦った娘の姿だという解釈の余地は残しているけれど……)。
 『春夏秋冬そして春』では、それまでの激しい怒りは影を潜めている。それでもまったく消えたわけではなく、秋の場面では、主人公の妻殺害が怒りの爆発とともに告白される。しかしその怒りは般若心経を床に刻むという鍛錬によって克服される。冬の場面では、意図せざる過ちによって人が死ぬが、その罪の意識も雪山へ登る荒行によって解消され心の平安を得ることになる。
 この作品の舞台は、山上の湖に浮かぶ寺だ。『魚と寝る女』にも登場した水に浮かぶ建物は、さらにそれを美しい四季を背景に見せることで、「空間についての映画」としてのギドク映画の特徴を示して余りある。しかしここではカメラは水の中に潜ることはない。「龍宮」に逃げ込むことはなく、地上に留まるのだ。その代わりロングショットで四季の風景が捉えられ、自然のなかに生きることが称揚される。春夏秋冬が順に描かれ、そこに幼年期・少年期・青年期・中年期を読み込むことで、四季に人生が重ね合わされる。さらに再度の春には幼年期の主人公が再登場することで、親から子へ、今の世代から次の世代へ、永続していく人間のあり方を感じさせる。「人間が自然の風景の一部である」とは、そういうことだ。
 ひとつ場所の四季を描く表現としては『ブレス』がある。ここでは白い殺風景な部屋に四季が呼び込まれる。「龍宮」においては、東西南北に春夏秋冬が同居する「四方四季」という特徴があるという。幸田露伴も『新浦島』において、「四方四季」の描写をしている。先にも触れたように、これは「龍宮」が仙境であり時間を超越した世界であることを示すものだが、『ブレス』『春夏秋冬そして春』における四季の表現も、永続していく世界を意識したものだろう。
 『春夏秋冬そして春』で私が注目したいのは、主人公を導く老師の存在だ。老師は主人公の未来を予言し、怒りに駆られた主人公を諭し、自らの跡を継がせる。老師は秋の場面で自ら死期を覚悟したかのように焼死してしまうが、その後蛇に為り変って寺に棲みつく。もともとこの老師は神通力で門を開閉させ、ボートを自由に操ることもできる。一種の仙人なのだ。それはさらりと示されるだけだ。
 次に老師が亡くなった後、冬の場面に注目してみよう。主人公が行うのは肉体の鍛錬だ。凍った湖の上、上半身裸で太極拳のような動きをする。これは健康体操でも拳法の修行でもない。これは神仙術に通じるものだ。神仙思想では「導引術」と呼ばれる、仙人になるための修行なのだ。修行を完成した老師は神通力を持つことができ、主人公もそうした一種の真理の体現者となるべく努力精進しているのだ。
 『うつせみ』では漢江の橋の下で異界へ入り込んでいった主人公は、刑務所のなかで奇妙な修行を開始する。その修行方法は『春夏秋冬そして春』の冬の場面に酷似している。そして肉体の鍛錬が姿を消すという特殊能力を獲得させるのだ。
 また『コースト・ガード』でも、狂気に陥った主人公は神出鬼没の存在になる。追い詰められた主人公は銃弾を浴びて倒れるが、そこには脱ぎ捨てられた服とヘルメットが落ちていただけだ。このモチーフは仙人の一種である尸解仙しかいせんに見られるものとそっくりだ。仙人は天仙・地仙・尸解仙の三種あるとされ、尸解仙は肉体を消失させたあとに抜け殻を残すとされている。
 『鰐』では神仙思想におけるユートピアである「龍宮」が夢想されたが、『春夏秋冬そして春』では肉体鍛錬による仙境への到達という前向きな形に展開していく。それは自然のなかに生きる人間という穏当な形で提示されるが、裏のテーマとしては、巡る季節がそうであるように、永続していく(不老不死の)存在を志向する神仙思想に「救い」を見出しているとも言えるのだ。

『春夏秋冬そして春』のギドクの姿
冬の場面における修行(導引術)シーン


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