第五作目『リアル・フィクション』は、直訳すれば「本当の虚構」ということだろうか。この映画は三時間二十分で撮影されたという。ギドクは総監督と脚本を担当している。実験的な色合いの強い映画だが、初期ギドクの「怒り」がよく出ている作品だ。
 主人公の絵描きが公園で似顔絵を描いていると、カメラを持った少女が現れ、<もうひとりの自分>のところへ導かれる。カメラを持った少女は主人公をつけ回し、しつこくカメラを向けてくる。映像は通常のフィルムの質感と、少女の持つデジタルカメラの荒い画像で構成される。パパラッチのような少女の存在は常識的な世間のまなざしにも感じられ、絵描きが見る世界と世間が見る世界が異なっていることを表現しているのかもしれない。だから絵描きは最後に少女を殺害することで世間のまなざしから自由になり心の平安を得る。
 絵描きが会った<もうひとりの自分>は彼の深層心理のような存在で、劣等感に満ち、怒りを溜め込んで、絵描きを煽りたてる。おまえを虐げてきたやつらに復讐しろと。その言葉に刺激され絵描きは<もうひとりの自分>を殺害し、復讐を開始する。浮気する恋人、理不尽な軍隊の後輩、裏切った友人、無実の罪を被せる警察、みんな汚いやつらだから死んで当然。男をカメラで追い続けた少女も殴り殺される。復讐を終えて元の公園に戻ると、殺したはずの人間は何食わぬ顔をして存在している。すべては妄想だったのか。しかし殺害に使った鉛筆には生々しい血が付いている。妄想だったとすれば、手元にある鉛筆は存在しないはずだし、とにかく辻褄は合わない。一体どういう意味なのか、われわれ観客は途方に暮れる。突然に監督の「カット」の声が響く。撮影は終了し、スタッフたちが雪崩れ込み、役者たちも含めた談笑が始まる。
 映画はもちろん虚構だが、現実は映画とはまったく別の実質を持つものだろうか。『リアル・フィクション』では、撮影したものを編集せずに上映する意図もあったようだ。虚構を現実化するという意図かもしれない。そのときそれは演劇に限りなく近くなる。ただそこは舞台ではない。虚構が演じられる場所は、市井の人々の住まう現実だ。だからそこにカメラを向ければ、意図する虚構以外のものも交じり合ってくる。野次馬的な観客もいるし、それを排除しようとするスタッフも写りこんでしまう。
 ギドクは『鰐』の撮影中に、三度の自殺に遭遇した。映画の設定ではなく現実において、漢江の川底に身を投げる人間が現れたのだ。そのなかのひとりの姿は実際の映画にも使われているのだという。それは虚構なのか、現実を写したものなのか。むろん現実にカメラを向ければ、フィルムには現実が写るというものでもない。ドキュメンタリーですら虚構に過ぎない。オウムを扱ったドキュメンタリー『A』の森達也は、その著書(『ドキュメンタリーは嘘をつく』)でドキュメンタリーの虚構性について記している。
 それでは『リアル・フィクション』の示す意味は何だろうか。通常映画では、観客は観ているものを虚構とは理解していても、「リアリティ(現実らしく見えること)」を求める。映画館に入ることで、現実世界とは別の「リアルな世界」を観客は体験する。観客は一種の異世界を体験しているわけだから、種明かしをするようにカメラの裏側を写しこんだりはしない。だとすれば『リアル・フィクション』のラストは、「これは本当の虚構なんですよ」という矛盾めいた宣言なのか。
 トリュフォー『アメリカの夜』に代表される、映画制作の裏話を描いた映画は多い。ギドクが原案・製作を担当した『映画は映画だ』も、そうした系統のひとつだ。映画は虚構だが、映画制作の場は現実だ。こう言ってもいい。映画という虚構の世界は、現実を材料として形づくられる。『映画は映画だ』では、暴力的な映画スターと俳優に憧れるヤクザ者が、映画という虚構のなかで(映画製作という現実のなかで)ぶつかり合う。ここでは映画という虚構と、映画製作という現実が曖昧なものになってくる。しかしそれは『映画は映画だ』という映画のなかだけの話だ。
 次に『うつせみ』を参照してみたい。『うつせみ』では幽霊と化した男が現れ、女に「救い」の手を差し伸べる。ふたりが一緒に体重計に乗ると針が零を示す。実体のない存在となったわけだ。これは夢か妄想以外の何ものでもない。その後に画面に示されるギドクの言葉は蛇足に過ぎるだろうが、ここでは役に立つ。「私たちが住んでいるこの世が、夢なのか現実なのか、誰にもわからない」。これは『うつせみ』の登場人物の言葉ではない。『うつせみ』という映画(虚構)の世界を超えた、ギドク自身の思想の表明だ。その思想は「胡蝶の夢」をなぞるものであり、『悲夢』ではそのモチーフが中心となる。
 したがって『リアル・フィクション』という映画の意味をもう一度捉えなおせば、『リアル/フィクション』とでも記すのが適当だ。現実と虚構は同等の存在として並び立つのだ。現実も虚構も同等の価値を持つものであり、それはギドクにとって自分の映画のなかだけのルールでなく、ギドク自身の物事の捉え方なのだ。
 ギドク作品に導入されてくる虚構を改めて振り返ってみよう。『リアル・フィクション』では、虐げられた絵描きが妄想のなかで復讐を遂げる。『悪い女〜青い門』では陳腐なホームドラマが娼婦の幻想となった。『うつせみ』ではふたりが現実を超えた存在と化す。『弓』では、老人は死して見えない存在となって想いを遂げる。『悪い男』は死んだ男のと解釈できる。こうした虚構(夢・幻)は、すべて登場人物たちの「救い」として表現されていることが重要だ。加えて『リアル・フィクション』『悪い男』に顕著なように、論理的な整合性は意図的に無視されて、現実と虚構は区別できずに混じり合い、さまざまな解釈に開かれている。
 次に、イ・チャンドン監督『オアシス』という韓国映画と比較して、ギドクとの違いを考察したい。この監督について、ギドクは「イ・チャンドンのリアリズムは真似するのも難しい」と評して、尊敬の念を惜しまない。『オアシス』では脳性麻痺の女性の恋愛がテーマだが、体の不自由なヒロインの見る幻が美しい。光の反射は蝶や鳥に姿を変え、ヒロインは幻のなかで自由な体を手に入れ踊りだすのだ。しかし『オアシス』では幻は幻として、現実と同じ価値を持つわけではない。ヒロインは恋愛を通して、幻のなかでなく現実においても羽ばたこうとするのだ。どちらが素晴らしいかと言いたいわけではない。イ・チャンドンが現実にヒロインを前向きにさせることに重きを置くのに対して、ギドクは現実も虚構も等価だとして、虚構のなかに「救い」を見出しているということだ。
 荘子が語った「胡蝶の夢」では、荘周の夢見た胡蝶なのか、胡蝶の夢見た荘周なのかは区別されない。これは荘子の「万物斉同ばんぶつせいどう」の思想を表したもので、辞書的な意味を引けば「人の認識は善悪・是非・美醜・生死など、相対的概念で成り立っているが、これを超越した絶対の無の境地に立てば、対立と差別は消滅し、すべてのものは同じである」とする考え方だ。これは現実と虚構が並び立つというギドクの考えそのものではないだろうか。
 ここで脱線となるが注意しておきたいのは、「ギドクが荘子の影響を受けている」などと言いたいのではないということだ。「非制度圏」の人間たるギドクは工場で働いていた。しかし怠惰に過ごしはしなかった。機械を改造し驚異的に生産性を向上させたエピソードが『ギドクの世界』に記されている。映画に登場する奇妙な武器(凍った魚や折ったポスター)でもわかるが、とりわけ工夫する人間であり、自ら物を創造していく人間なのだ。ギドクは「影響されたくないから」という理由で本を読まないと語っている(影響された人間からはあんな武器は生まれない)。ギドクは独自の方法で人間について考察する。その方法とは「自恃の精神」とでも名付けるべきものだ。ギドクの映画には自作からの引用や、同一モチーフが繰り返し登場するが、それは何より映画を製作するなかでギドクが物事を考え、ひとつの作品で終わることなく絶え間ない活動をしてきたことの表れなのだと私は思う。だから何かとの類似を指摘したとしても、それは私が感じたことの説明のための便宜に過ぎない。

 さて、ギドクを形容する言葉として頻繁に挙げられるのは、「絵画的なイメージ」というものだ。『ギドクの世界』にも、そのような指摘がなされている。これはギドクが絵描きを目指していたというプロフィールから導き出された単なる印象論に過ぎないだろう。しかし直感のなかにこそ真実を突くものがあるように、何気ない表記にも幾分かの真理が見出せる場合もある。映画の表現に対して使用される「絵画的」とは、どういう意味だろうか。
 ドキュメンタリー映画の監督である佐藤真は、写真を連ねた「動かない映画」である『ラ・ジュテ』を論じてこう記している。  
ロラン・バルトの『明るい部屋』を持ち出すまでもなく、写真は本源的に〈それはかつてあった〉という過去の記憶へさかのぼる志向をもっている。それに比べると、映画は、〈現在ここにある〉といった現在性へ踏みとどまろうとする志向をもっている。(『ドキュメンタリーの修辞学』)
   それでは「絵画的」なる言葉は何を志向するか。「現在」でも「過去」でもなければ、それは「現実ではないもの」へと飛翔する志向をもつのではないか。どういうことか。写真は現実の過去の姿を留め、映画はその現在を捉えようとする。絵画は精密さでは写真に劣り、動きを捉える点で映画に後塵を拝する。写真や映画というメディアが誕生した後の絵画は、単に精確に現実を写すだけでは飽き足らなくなるのだ。だとすれば絵画はそうした現実からは離れる方向に進むほかない。例えば、「キュビズム」の絵画が立体を平面に写すことを志向し、対象を分解して再構成するように。「現実ではないもの」とは、「どこにもない場所」という意味で「ユートピア」に近く、「リアルではない」という意味で「虚構」へと結びつく。
 具体的に「絵画的」と言われるギドクの映像を見てみよう。『うつせみ』ではDV加害者である夫を間に挟んでのキスシーンがある。妻が夫を受け入れ抱擁した瞬間、音もなく現れた主人公が妻の唇を奪うのだ。現実にはそんなキスを考えることは難しい。その意味でリアリティは犠牲にされるが、どこにも存在しない世界(ユートピア)が画面上に浮かび上がるのだ。
 『受取人不明』では、三者三様の理由で片目に傷を負った主人公たちが、田舎道をうなだれながら歩くカットがある。けがを負った日時もまったく違うはずであるのに、三人が相前後して歩き、それをカメラが正面から捉えてしまう。現実にあり得ないシーンではないが、虐げられた主人公たちの象徴的なイメージが結晶していると考えたほうがいいだろう。ギドクは正面からの構図の前に三人の横顔を捉えているが、わざわざカットを割っており、背景も微妙に異なる。それは、現実に三人が並んで歩いていると見るのではなくて、象徴的に構成されたカットとして捉えられるべきだということの証左となるだろう。
 このように考えてみると、現実と虚構が並び立つギドク映画においては、「絵画的」という印象批評も肯けるものとなるのではないか。

『受取人不明』の三人の主人公
傷ついた三人の象徴的なシーン


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