チョン・ソンイルは、ギドクの映画を「空間についての映画」だと指摘している。『鰐』では漢江の橋の下、『春夏秋冬そして春』では湖上、『弓』では海に浮かぶ船の上、『悪い女〜青い門』『悪い男』では売春宿、『コースト・ガード』『受取人不明』では軍隊とその周囲の町が舞台である。そんなギドクの作品群にあって、「空間についての映画」という指摘を最も集約した場面が『魚と寝る女』の冒頭だろう。朝靄のなか湖上にポツリポツリと浮かぶ島のような釣小屋の風景。このシーンでこの映画はすでに成功を約束されていた。原題『The isle』が表現するように、湖上の小屋は一定の距離を保って浮かんでおり、個々に独立した世界を構成している。訪れる客は釣りを楽しみ、ラブホテル代わりに使用し、俗世間からの逃避場所にし、各々の島で自由勝手に振舞う。ギドクはこう説明する。「島は他人が来ることだけを待っている私たちの動けない心であり、来た人を手放すまいとする私たちのエゴなのだ。だが、そのすべてがこの時代に誰もが持っている残酷な孤独だ」(『ギドクの世界』)。
 主人公の女はそんな島々の管理者であり、雑用係であり、夜には男たちに体を売る娼婦である。物語はひとりの男が湖に現れるところから始まる。管理人の女は男に相通じるものを感じ取る。染み付いた厭世観かもしれないし、孤独の匂いかもしれない。男は殺人犯であり、逃亡中の身だ。このふたりが次第に近づいていく。湖上という撮影上の制約からか遠景のカットも多く、また主役ふたりの禁欲的なまでの無口さのため、物語は画面の連なりのみで描かれていく。しかし台詞はなくともギドクの映像は雄弁だ。例えば、雨の降る薄暗い湖上でふたりが濡れながら酒を飲み交わす場面などは、ふたりがどうしても結びついてしまうということを説得的に表現している。
 それでもふたりが結びつく理由は、愛ではない。男は女を「売春婦」と罵り、レイプしようとすらする。お互い何かしらの共感を抱いてはいても、それを表現する方法を知らない。ただ動物的に結びついたと言えるかもしれない。ふたりの間に幸福な時間が訪れるのは、互いが自らを傷つけたときだけだ。男は警察を恐れて死を望み、女は男を引き留める手段として自傷する。男は現実逃避のため、女は寂しさのため、自ら恐るべき方法を選ぶ。男は釣針をのどへ入れ、女はそれを股間へ入れるのだ。相手が傷ついて動けないとき、哀れみからか束の間の穏やかな時間が流れる。女が男に身を委ねるその姿は幸福感に満ちているが、それは愛には見えない。「もたれあい」なのだ。男は孤立した島(釣小屋)に寄りかかり、女は男に体を預けて包まれる。だがそれは「もたれあい」の関係だから、警察によって「島」の存立が脅かされると、男はもたれかかるものを失って、ふたりの関係は崩壊さざるを得ない。
 警察から逃げるために、女は釣小屋にモーターボートのエンジンをつけて旅立つ。黄色い小屋が湖上をゆったりと滑るように進む様子は、ファンタジックな結末の雰囲気さえ漂う。しかし展開は急だ。それでいて劇的な調子ではなく静けさがある。湖のなかからゆっくり裸の男が現れると葦原のなかに消えてゆく。その葦原に重ね合わせられるのが、男に殺されて水のなかに浮かぶ女の黒々とした陰毛だ。男は生まれたままの姿に戻り、女の子宮のなかへ逃げ込んでゆくのだ。
 この唐突な子宮回帰願望は何か。これは『鰐』における「龍宮」と同様なユートピアとしてあることは間違いない。宮台真司は『悪い男』『コースト・ガード』を次のように概括している。「〈社会〉をうまく生きられない者同士が、そのことによって「繋がり合う輪」を構成した上で、〈社会〉からもっと遠くへ着地する。いや、むしろ、〈社会〉からもっと遠くへと着地するがゆえにこそ、ありそうもない「繋がり合う輪」を実現するのである」(『〈世界〉はそもそもデタラメである』)。ここで宮台が「繋がり合う輪」と呼んでいるものが、私が「もたれあい」と呼んだものだろう。これはほかの作品では利用しあう関係になり(『ワイルド・アニマル』)、同情を伴う連帯になる(『うつせみ』『コースト・ガード』)。宮台は、こうした図式が日活ロマンポルノの作品群を思い出させるとして次のように記す。  
だが、そのことが却ってキム・ギドク作品の独自性を際立たせもする。例えば日活ロマンポルノの作品群と違って、ロマンチックな匂いは希薄だ。理由は、左翼的な解放的関心からは遠いからである。即ちキム・ギドク作品は「弱者であることからの解放」を全く志向しない。
 政治的観点から論じるつもりはないが、「「弱者であることからの解放」を全く志向しない」という指摘は重要だ。それはギドクの政治的立場ではなくて、考え方の傾向を示していると思えるからだ。言い換えれば資質を明らかにしている。「国や大多数の人々の幸福の前に、個人的な幸福と自由について語りたい」(『Visual Language』)とギドクは語っている。
 ここで若松孝二監督『胎児が密猟する時』と比較してみたい。若松孝二はピンク映画でデビューした監督であり、『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』などの作品は「左翼的な解放的関心」の圏内にあると言える(尤も、若松孝二は『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』という作品も撮っていて、左翼というよりも反権力志向なのだろう)。
 『胎児が密猟する時』では、妻に逃げられた男が妻と瓜二つの女を監禁する。男のアパートの密室のなかだけで物語は進む。男は子どもを持つことを恐怖しつつ、自らは亡き母親の胎内に回帰したいと妄想する。ラスト、女の反撃に遭って血に塗れて横たわる男の姿は、胎内という密室のなかの胎児に擬せられている。
 柄谷行人もどこかで芥川龍之介の『河童』を引いて指摘していたように、子宮回帰は本来不可能なことだ。不可能な願望は『胎児が密猟する時』のように、悲惨な結末を迎えざるを得ない。宮台真司は、若松孝二『理由なき暴行』『ゆけゆけ二度目の処女』の共通のモチーフを「どこかに行けそうで、どこにも行けない」だとする。これは左翼的な現実認識を表わしている。社会の改良には正しい現実認識が不可欠で、当然子宮回帰願望のごとき全能感は断念されるしかない。だから主人公の男は女を監禁し虐げた罰として女に逆襲されて死ぬほかない。死して初めて願望が成就されるというのは、つまりはその願望の不可能性を皮肉な形で示したものだ。
 翻ってギドクを考えると、不可能なはずの子宮回帰願望をさらりと描いてそのまま映画を終わらせてしまうのだ。男は罰を受けて殺されるわけでもなく、そのまま逃げてしまう。もちろんそれは妄想として提出されてはいるのだが、邪魔になった女を殺し、男にとって都合のよい全能感に逃げ込んでしまうのだ。
 ギドクは『Visual Language』において、こんな意のことを語っている。「私が住んでいる世界のアイロニーを乗り越えて前に進みたいのです。もし(シナリオのなかで)誰かを殺すことで前に進めるのならば、私は殺し、そして許しを乞います。私はそうしてきました」。ここでの「アイロニー」について前掲書の著者は次のように説明している。自然と教育との間、自然のままの人間と社会的慣習によって課された制限との間、またわれわれが無原則に(at random)幸福であったり同様に無原則に苦しんだりすることとの間の不調和(maladjustment)のことであると。これは単純に言い換えればこの世界の不条理ということだ。ギドクは同時に、「私の映画は問いを提案する」ものだと語る。『鰐』であれば、「社会の底辺に生きる者たちがたどり着いた場所はどこか」という問いだ。『魚と寝る女』なら、「殺人者が逃げ込む場所はあるのか」という問いになるだろう。ギドクは映画のなかでそれに彼なりの回答を与える。それは倫理や道徳には反するものかもしれないが、不条理を乗り越えることが優先される。
 『魚と寝る女』という邦題が混乱させるが、物語が男の登場から始まるのでもわかるように、ギドクの関心(言わば「救い」を与える対象)は男の側にある。唯一の回想シーンで描かれるのも男の過去であり、女の過去は壊れたバイクや男物のセーターなどに仄めかされるだけだ。ギドクはつかの間の場所として女の存在意義を認めるが、最後にはうち捨てるごとくに殺してしまう。女性にとっての子宮回帰願望も存在するのかもしれないが(女性も女性から生まれる)、ここでは男の願望のみに焦点を合わせており、男と女の関係には「救い」を見出していない。女は殺され、男は再び逃亡する。その物語には「救い」などない。しかしスクリーン上には男の逃げ込む場所が提示される。画面上に「救い」のひとつの形が構成されるのだ。

『魚と寝る女』 “島”でのつかの間の安らぎ
傷が癒える間のつかの間の“もたれあい”


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