『悪い女』 助けた亀を海に返す
冒頭の亀の放生シーン

 しかしそれだけでこの漢江の川底が「龍宮」と言えるのか。ほかの作品を見てみよう。『悪い女〜青い門』(第三作目)では、冒頭に亀を助けるシーンが描かれる。浦島太郎は亀を助けたことで龍宮城へ招待されたが、この映画ではどうなるか。
 『悪い女〜青い門』では、寂れた海岸で民宿を営む家庭が舞台だ。民宿とはいえ家族の生計を成り立たせているのは、宿での売春行為だ。大学生の娘はそれを不潔だと毛嫌いし、住み込みの娼婦を差別扱いする。この作品ではそんな大学生の娘と娼婦との反目が物語の中心となるが、それが時を経るうちにいつしか友情らしきものに変化してしまう。そして堅気の娘だった大学生が、なぜか娼婦の代わりに客の相手をする。
 この展開は説得力のあるものではないし、ギドクもそうは考えていない。ラストは反目し合っていた家族たちがグロテスクなほどの笑顔を見せ合って、幸せを絵に描いたような朝を迎える。そしてエンドクレジットで映されるのは海に泳ぐ金魚だ。冒頭の亀の放生と同じく、水中から空を見上げる視点で撮影されている。冒頭と対になっているのだ。この金魚は娼婦が部屋で飼っていたもので、それが狭い金魚鉢を出て自由になったことの暗示だろう。この作品の英語の題名は『Birdcage Inn』である。したがって主人公の娼婦も鳥籠から自由になったことも示しているだろう。亀を助けた娼婦(金魚)は、そのおかげで自由を得ることになったのだ。だが落ち着いて考えなければいけない。金魚は淡水魚で海には存在しないし、存在しても生きてはいけないのだ。金魚が大海で泳ぐのはあり得ない幻想ということだ。つまり娼婦と堅気の娘の友情も幻想として理解するべきなのだ。浦島太郎は龍宮城へたどり着いたが、娼婦がたどり着いたのは逃げ場としての幻想だったのだ。
 もちろん亀の放生と金魚が海を泳ぐのは何の関係もない。しかしギドクはそのエピソードで作品を包み込んだ。そこに浦島太郎と龍宮の影を見ることは、あながち間違いとも言い切れないだろう(韓国には龍宮寺という観光地もあるようだ)。『鰐』で川底の聖域に亀が舞い踊るのは、ギドクなりの龍宮の造形なのだ。また『うつせみ』では、主人公の使用する小道具のなかで、「龍宮」の名前を冠したレストランのチラシが登場する(また主人公がまたがるバイクも、浦島太郎を乗せる亀を感じさせなくもない)。ギドクは「龍宮」というユートピアを意識しているのではないだろうか。

 そもそも「龍宮」とは何だろうか。それはおとぎ話「浦島太郎」に出てくる架空の場所のことだ。ここでは『浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生』を参照してみたい。(*1) ギドクの主人公たちが幽霊のごとく姿を消し(『うつせみ』)、もしくは仙人のごとく超自然的な力を持つに至る(『春夏秋冬そして春』)理由を説明するのに、有用な議論がなされていると思えるからだ。
 著者の三浦祐之は、おとぎ話「浦島太郎」の結末に対する違和感から出発し、著者自身でも意外なところにたどり着いてしまう。その違和感は、亀を助けた浦島太郎がさして報われることもなく、おじいさんになってしまうという展開から生じている。絵にも描けないほど美しい龍宮城で、乙姫さまからの飲めや唄えやの歓待を受けた。鯛やヒラメの舞踊りも愉快だった。時を忘れるほどの場所だった。とはいえ青春時代を無駄にするほどの価値はないはずだ。浦島太郎を客人としてもてなした乙姫は、何故に玉手箱などをお土産にしなければならなかったのか(太宰治はそこに「忘却の救い」を無理やり読み込み、深い慈悲の表れとした)。
 結局、著者が「浦島太郎の起源」として認めたのは、伊預部馬養いよべのうまかいというひとりの学者の書いた神仙譚であった。ここでは異境での仙女との邂逅がテーマとなっている。つまりは恋愛小説だ。しかし異境と現実では時間の位相が異なる。異境は永遠の世界であるからだ。玉手箱には浦島太郎の魂が納められており、だからそれは持ち主の浦島に返されることになる。著者は次のように記す。  
この物語が異境と地上との時間の差異を抱え込まねばならないのは、淹留した仙境が不老不死の世界として幻想されているからである。不老不死とは、時間がない世界だからこそ可能なのである。そして、その桃源郷は、人間が時間に縛られた存在であるという認識から幻想されたものであり、異境の無時間性が地上の時間性を同時に抱え込むことは必然であった。
 ほかのおとぎ話の報恩譚(例えば「夕鶴」など)と並べると違和感が生じるのは、「浦島太郎」が口承で伝えられてきたおとぎ話とは異なる起源(神仙譚という書物)を持つからにほかならない。
 しかしここで重要なのは、「龍宮」についての理解だ。「龍宮」は元々は「蓬莱山」であったとされている。それは「古代中国の神仙思想において、東の海の彼方に幻想された理想郷であり、仙人たちの住む不老不死のユートピア」なのだ。「衰亡する肉体と過ぎてゆく時間への畏怖」を持つ人間は、「龍宮」という一種のユートピアを夢見ることでそれに対抗しようとしたのだ。『鰐』のヨンペは、自ら「龍宮」を創り出すことで現実と折り合いをつけてきた。『鰐』のラストに「救い」があるのは、死の最中にあって初めて「龍宮」の全体像が示され、そこが一種のユートピアだと理解されるからなのだ。

 次に漢江の橋の下の役割を簡単に指摘しておきたい。「おまえは橋の下から拾ってきた」と、親から冗談めかして言われた人も多いだろう。この言葉がどんな教育的見地でもって一般的に語られるのかは知らないが、民俗学的な知見からすると、橋の下あるいは川岸で拾われた子どもというモチーフはごく自然なものだという。桃太郎や一寸法師などがその例だ。民俗学者の宮田登は『冠婚葬祭』において、橋の下や川岸など水辺の境界地は、この世とあの世の境界を意味すると指摘している。しかし映画の表現では民俗学的知識とは別に境界が示されなければならない。ギドクの映画でもそれは明確に示されている。『うつせみ』の主人公は橋の下で半殺しに遭うが、次のカットでは橋脚が連なる様子が正面から捉えられる。その様子は鳥居が連なる風景に酷似している。鳥居を潜った先にあるのは聖域であり、異界なのである。(*2)だからこのカットが示された後、主人公は現実の存在を超越していき幽霊(目に見えない存在)になるのだ。『鰐』で女が再度の自殺を試みたときも、主人公が刺殺される『悪い男』でも、橋脚の先にある暗い異界が暗示されている。『鰐』では龍宮という異界へ到着し、『悪い男』では殺された男の夢の世界へと誘われる。

(*1) 松岡正剛の千夜千冊(第635夜)でも紹介されている。
(*2) 鳥居とは神道における結界を表すものであるが、これは“門”の一種である。この“門”は聖域と人間の住む現実をつなぐものである。韓国に鳥居そのものはないようだが、ギドクはふたつの世界をつなぐものとして、または向こう側に突き抜けるものとして、トンネルのような“門”を登場させているのではないか。

海の中から捉えられた金魚と悪い女(?)たち
エンドクレジットの海を泳ぐ金魚


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