処女作にはその作家のすべてのテーマが詰まっているという。キム・ギドクの処女作『鰐』に描かれているもの何だろうか。
 舞台となる漢江ハンガンの橋の下は自殺の名所であり、主人公のヨンペは自殺者の金品をくすねて生計を立てているホームレスだ。物語は橋の下に生きる底辺の人間たちを描き出す。ヨンペは自殺者の女を助け、その体を思いのままに扱う。拾った金品が自分のものになるのと同様に、捨ててあった女は自分のものだというがごとくに。ヨンペは到底観客の共感を得られるキャラクターではない。
 こうしたヤクザ者を主人公に据えた映画は少なくないが、その多くは破滅に向かって進んでいく。例えば同じ韓国映画の『息もできない』でも、ヤクザ者の主人公は最後には別のヤクザ者に殺される羽目になる。「人を殴る野郎は自分は殴られないと思ってる。でも痛い目に遭う日がくる」と主人公自らが言い放っていたように、反社会的なキャラクターはその罪のために自ら墓穴を掘ることになる。言わば因果応報であり、世間常識からすれば自滅は落としどころとなる。また因果の道理に従えば、ヤクザ者の現状には過去の出来事が影響している。だから『息もできない』では回想シーンが重要な意味を持つ。ギドクにおいてほとんど過去が描かれないのと対照的だ。ギドクは現状に至る説明はしない。落ち込んだ現状からの「救い」こそが描かれる。『息もできない』では、主演も務めた監督の情念をぶちまけることに趣意がある。それは家庭を崩壊に導いた父への問いかけだ。だからヤクザ者に将来への淡い期待を抱かせるのは一瞬なのだ。ヤクザ者は自らの行動の責任を取らされる形で幕を引かされることになる。一方でギドクの映画においてはどうか。
 ヨンペは「(わに)」と呼ばれている。この呼び名には、地上と水中を行き来する存在という含意がある。初期のギドクでは「鰐」のような動物的な人間が主人公だ。第二作目のタイトルにもそれが表れている(『ワイルド・アニマル』)。ギドクは自らを、韓国学歴社会の「制度圏」からはみ出した「非制度圏」の人間と規定している。映画のなかの人物像は、ギドク自身の経験や感情を反映している。それはホームレスであり(『鰐』)、娼婦であり(『悪い女〜青い門』『魚と寝る女』)、基地の町に住む人々であり(『受取人不明』)、異邦人であり(『ワイルド・アニマル』)、DV被害者であり(『うつせみ』)、それぞれに虐げられて怒りや鬱屈を抱いている。
 『鰐』では地上と水中は対照的に描かれる。薄汚い地上と浄化された水中。川底の映像はエメラルドの光が揺らめく幻想的な雰囲気だ。地上では常に不機嫌なヨンペが、なぜか水中にいる間だけ人間性を取り戻したような穏やかな表情を見せる。そこはヨンペにとっての聖域アジールだからだ。
 物語は、恋人の裏切りに絶望した女が再度の自殺を図ることで終わるが、女に愛情らしきものを覚えたヨンペは女の後を追う。ヨンペは添い遂げようと手錠で自らを女と結びつけるものの、結局は地上に戻ろうと足掻きつつ死んでしまう。女は死という絶対的な安寧を求めてその聖域に留まろうとし、ヨンペは「鰐」の呼び名に相応しく、聖域(水中)に留まることと現実(地上)に引き返すことに引き裂かれる。そして、たまたま息絶える。(『ワイルド・アニマル』では、似た設定でも逆に地上に帰還する。)しかし、これは『曽根崎心中』的な美しい心中物ではない。現実に生きる場所がないからふたりで死を望んだのではなく、ヨンペは間違って死んでしまうのだ。しかし主人公の死にも関わらず、ラストシーンは陰惨な雰囲気はないし、悲劇的なトーンもない。それどころか「救い」を感じさせる。それは川底が「龍宮」として夢想されているからなのだ。
 社会の底辺をうろつくヨンペたちにとって現実は厳しい。これは次のようなギドクの世界観が影響している。ギドクはこう言う。「私にとって世界とは、誰かがメチャクチャに私の横面をひっぱたき、狂ったように逃げてしまう場所である」(『ギドクの世界』)。ヨンペは何度もそんな目に遭遇する。女にちょっかいを出そうと暗がりに連れ込むと、見知らぬ誰かによってぶちのめされる。顔の見えない誰かによる制裁は、ヨンペにとっての現実のあり方を象徴している。厳しい現実には逃げ場が必要となる。そのためにヨンペは川底に「龍宮」を創りあげた。バロック様式のソファを設え、レンガの橋脚の壁には絵画を掲げ、甲羅に彩色を施した亀を躍らせるのだ。こんな貧相な「龍宮」はかつてどこにもなかっただろうが、ヨンペには唯一の聖域なのだ。

『鰐』 ラストシーンに出現する龍宮の姿
ヨンペが創り上げた龍宮(左上に亀が舞い踊る)


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