私がこんな文章を綴り始めたのは、何よりキム・ギドクの映画を観た「驚き」からである。その「驚き」はギドクがほかの誰にも似ていないことからきている。ほかの誰が『魚と寝る女』『春夏秋冬そして春』の風景を創造し得たか。ほかの誰が『悪い男』のような主人公に愛を夢想させようとしたか。ほかの誰が『うつせみ』のキスシーンや『弓』での破瓜シーンを撮ろうとしたか。ギドクは映画の歴史のなかに突如現れた異物のような不可解な存在なのではないだろうか。ギドクの跡に続くものはいるかもしれないが、ギドクの前には比べるものは見当たらない。「鬼才」などというギドクの呼称は、才能はあるが真っ当さからはほど遠く、説明できない部分が残ることから選ばれたものだろう。
 画面構成の見事さだとか、猟奇的な場面に寄り添うシニカルなユーモアだとか、荒唐無稽すれすれの予想もつかない脚本展開だとか、ギドク映画の美点を数え上げるのはいくらでも可能だろう。しかしギドクを観た「驚き」に比して、そうした手段は明らかに退屈極まりない。「驚き」は映画を観るという行為にしか存在しないからだ。
 その意味でこの論考は、その「驚き」を捨象してしまう可能性は否定できない。例えば、ここでは『悪い男』についてはほとんど何も語っていない。ヤクザとして社会ののりを越えて横暴な振る舞いをしつつ、惚れた女には無力で、酔っては甘えるような目を向け、『また逢う日まで』の如くガラス越しのキスなどを試みる。そうかと思うと自分のしたことに罪を感じているようにも見え、自分を卑下する言葉を吐く。こんなキャラクターは何とも説明に苦しむ。映画はそんな主人公の妄想と化している。そこに「驚き」はあるが、私にはそれを語る言葉がない。だからここではギドクのある側面だけを自分勝手に探る試みに過ぎない。それでも、そんな馬鹿げた試みを私に強いるものがギドクの映画にあると思うのだ。

『悪い男』ハンギとソナ

 現在のところ、ギドクを単体で扱った日本で唯一の本である『キム・ギドクの世界 野生もしくは贖罪の山羊』(以下『ギドクの世界』)を参照してみよう。ギドクからの信頼も厚いという著者のチョン・ソンイルは、同じ韓国の映画監督ホン・サンスと比較して記している。  
ホン・サンスの映画を観ると恥ずかしくなるが、キム・ギドクの映画を観ると怒り出す。ホン・サンスには、私たちのひそやかな私生活を暴かれたと思い、キム・ギドクには、全く何てことを考えるんだと面食らう
 ホン・サンスはギドクと同時期にデビューした国際的にも評価が高い監督だが、描かれるのはごく些細な日常だ。男と女が出会い、語り合い、情事に至るといったようなことだ。ギドクの映画においては、レイプした男に被害者の女が心を許したり、犯罪者は罪をつぐなうこともなく現実逃避的に夢幻の世界に入り込んでしまう。だからこそわれわれは「面食らう」わけだ。
 また別の箇所では「キム・ギドクが私たちを居心地悪くさせる」としている。これはギドクの暴力性であったり、反倫理性であったり、展開の荒唐無稽さに対するごく一般的な反応であるかもしれない。その居心地の悪さが観客を二分して、一方を熱狂的な支持に向かわせ、他方を呆れさせそっぽを向かせる。『悪い男』はヒット作だが、韓国ではフェミニズムの側からは非難を浴びた。チョン・ソンイルはその居心地の悪さを次のように説明する。それは「彼が怪物や動物や精神障害者だからではない。反対に彼だけが罪の意識を捉えて闘っているために、私たちはその事実を思い起こさねばならない。それが私たちをつらくさせる」のだと。そして、ギドクを韓国において「非常に大切な存在」と思うようになったと告白している。これはギドクの宗教的な側面を強調する言葉として読むべきではないが、ギドクの映画に、またはギドクの映画に対する向き合い方に真摯なものを感じ取ったのだろう。
 ギドクはこう言っている。「罪の意識と救いは、具体的に存在しないけれども避けることもできないと思うんです。罪の意識と救いでない関係が、果たしてこの日常に存在するのでしょうか。それは宗教的に解釈されるものではないと思います」(『ギドクの世界』)。もともとギリシャ語の「罪」とは、「的外れ」であることだ。神の方向を向いていないことが「罪」とされる。ギドクの映画のなかで「罪」が最も焦点化されているのは、『春夏秋冬そして春』『サマリア』あたりだろう。それ以前を初期の作品とするなら、初期は「怒り」が前面に出ている。『絶対の愛』以降、「罪」の意識は薄れ、「満たされない想い」といった成熟社会の市井の人々に焦点を当てたテーマに移行している印象を受ける。
 『春夏秋冬そして春』では、怒りに駆られた殺人と意図せざる罪が提示される。『サマリア』では、過ちから友人を死なせた女子高生が罪の意識を抱く。また、その女子高生の父親は買春した相手を糾弾して回るが、男たちは皆、父親からのまなざしに晒されると疚しさを覚え退散するしかない。こうした「罪」の意識は神という存在を必ずしも必要としないし、「救い」も宗教的な形になるとは限らない。『春夏秋冬そして春』は仏教寺院が舞台だが、その名称は「人生庵」である。人生を見つめるものとしてギドクの映画があるからだ。ギドクはMarta Merajver Kurlat『Kim KI Duk: On Movies, the Visual Language』(以下『Visual Language』。拙訳は私です)でこう語っている。「映画をつくることは人生を理解するための試みだ」と。
 初期作品に色濃く流れる「怒り」は、自らのおかれた場所が不当なものと感じられるからだ。『絶対の愛』での愛への希求や、『ブレス』での結婚生活の不和といったテーマも、あるべき正しい姿からかけ離れているという意識からもたらされる。「罪」が神という絶対的な正しさから隔たっていることだとするなら、「怒り」や「満たされない想い」も神を媒介としないだけで「罪」の等価物だ。ギドクが言うように、それは人間存在に不可避なものだ。われわれは不当な場所からは逃げ出したいし、満たされない想いは解消したい。ギドクはそうしたわれわれの想いへの回答示してくれる。ここでは、それを「救い」として考えてみたい。「救い」とは生きるための知恵のようなものだ。ギドクは常にそんな「救い」を意識していると私には思えるからだ。



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